めおとフーリガン工房

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大江戸鬱日記 #003

2009年8月

#00055 鎌倉・葉山行
08/26/2009

 あいさんと、鎌倉・葉山を小旅行。

 まずは、おなじみの名店「去来庵」で、自慢のビーフ・シチューを食す。平日だったこともあり、行列に並ばずに済んだ。

 店を出たところで、フランス人男性の2人組に声をかけられた。

 写真を撮ってくれないか。

 最初は、そう思ったが、実は違った。

 「一緒に撮ろうよ」。

 訳も解らず、3人でフレームに収まる。

 失敗した。私も、自分のカメラで彼らを撮影すれば良かった。

 ま、思いがけない出会いは、いつでもあるものだ。

 足を「明月院」へと向ける。中にウサギ小屋があるが、いつ来てもウサギはいない。

 門前にある「風花」で一服。アジサイの季節に来た時に写した、お手伝いの女性の写真をご主人に手渡した。

 「左側の彼女、舞台女優なんですよ。『タレント名鑑』にも載ってるくらいです」。

 女優さんだけでは、なかなか食べて行けないそうだ。また来年、会えるかな。

 「明月院とウサギの取り合わせには、何か理由があるのですか」。ご主人に聞いてみた。

 「月ではウサギが餅を搗いているじゃないですか。あれですよ。ちなみに、うちがウサギの饅頭を出すのは、卯年に出店したからなんです」。

 「江ノ電」和田塚駅の線路際にある「無心庵」。マスコミでも頻繁に取り上げられる有名店。運良く席が空いていた。

 私は、オーソドックスに「あんみつ」を、彼女は「白玉きな粉」を注文した。

 席を立つと、2組が素敵な囲炉裏端で、席が空くのを待っていた。

 テレビで見てはいたが、本当に店の鼻の先を、江ノ電が通っている。

 車で葉山へ。大学生の時に、クラスの友人と来て以来の懐かしの地。

 目当ては夕日。「空が赤くなって、モデルさんのバックに、太陽がグーッと沈んでいくんですよ」。

 スタジオの社長さんが、教えてくれる。

 残念ながら、雲が出てきてしまった。

 故・石原裕次郎さんを偲ぶ記念碑、海岸の突端に見える神社の赤い鳥居、遠くには江ノ島が目に入る。

 地元の子と思しきグループが、焚き火を始めた。

 何を焼いているのか、覗いてみた。

 黒いトゲトゲの物体。

 ウニだった。

 あいさんの表情も、この辺りから柔らかくなってきたので、いろいろなシチュエーションを試してみる。

 砂浜に、ハート・マークを描くシーン。何かの写真集で見て以来、一度トライしてみたかった。

 海の家と呼ぶには立派な店で慰労会。

 あいさんはジュース、私はタイのビールを注文した。

 1000円で500円のお釣りが来る。

 ジュースが300円なのに、ビールが200円。あれれ、どうなってるんだ。

 「ビール、今ね、安くしてるんですよ」。

 東京から、自動車で1時間半。こんなに良いところだったのか。

 「素敵でしょ。また来て下さいよ」。

 店内では、何やらライブの準備が進んでいる。パーカッションがメインのバンドらしい。

 「6時から始まりますので、ぜひご覧になっていって下さい」。

 6時は、出発の時間だった。

 帰りは渋滞。高速を下り、あいさんとは、新橋駅でお分かれした。

 「夏休みが9月の後半まであるので、もう一回、実家に帰ります」。

 おいおい、この間戻ったばかりじゃないか。

 「地元であるコンサートのチケットが取れたんですよ。それに、田舎の方が落ち着くし」。


#00054 MIDTOWN ♥ SUMMER 2009
08/16/2009

 「東京ミッドタウン」の「MIDTOWN ♥ SUMMER 2009」。

 「水花火」なるものが打ち上げられるというので、かみさんと出かけてみた。

 水柱が60mにまで上がり、それをレーザー光線が照らす。

 とにかく、写真を見ていただきたい。



 「MIDTOWN ♥ SUMMER 2009」は8月23日まで。お近くの方は、足を運んでいただきたい。


#00053 練習見学
08/16/2009

 8月10日、久しぶりに練習を見てきた。トニーニョ・セレーゾ監督時代以来である。

 練習は、3つのグループに分かれて行なわれた。1組は、コーンを使って細かいステップを駆使するトレーニング、あとの2組は、心拍計を装着してのランニング中心のメニュー。

 ケガの後藤選手はグラウンドをひたすら走り、大迫選手はボールを使った別メニュー、JOMO CUP 出場選手の姿はなかった。

 青木選手や増田選手が先頭を行く中、本山選手が苦しそうに走っていた。「調子はどう?」と声をかけてみたところ、「足、パンパンです」。それでも、笑顔がこぼれていたのが幸いだ。

 中田選手は、「ベテランは代えてよ」とお願いしていた。練習に交代なんてあり得ないのに。

 嬉しい出会いがあった。NHK で長年、サッカーのアナウンサーをされていた「山本浩さん」が、「スカパー!」の取材で、クラブハウスを訪れていた。

 たまたま、フリー・アナウンサーの倉敷保雄さんとの対談集「実況席のサッカー論」(出版芸術社)を持っていたので、サインをお願いした。

 「そこにいるのは私たちです」。サインをしてもらった言葉は、ジョホールバルでフランス行きを懸けたイラン戦での死闘で、山本さんが発した名台詞「そこにいるのは私たちそのものです」から来ているのだろう。

 「好きなチームはありますか?」「公平な立場から見たいので、ありません。ま、広報の方とは、飲み友達ですけどね」。

 東京外国語大学ドイツ語学科を卒業されている山本さん、「ドイツでそばを注文するぐらいなら話せますよ」。

 練習が終わり、監督とお話しした。幸い、監督も私も英語が話せるので、何点か質問してみた。

 「チーム状態はどうですか?」「非常に良いです」。

 「残り2タイトルですが、見通しは?」「とても楽観視しています」。

 「選手のモチベーションを上げるのが上手ですが、何か秘訣はありますか?」「何もありません。ただ、一般的なことをやっているだけです」。

 バックスタンドから撮った写真をプレゼントし、自分の分にはサインをしていただいた。

 フィジカル・トレーニングは、選手の練習に対する姿勢が解るので、見ていて面白い。かつては、阿部選手や室井選手が、少し手を抜いていたのが傍から見ていても一発で見て取れた。内藤選手は、最後のコーンまで、丁寧に、そして一生懸命に走り抜いていた。人柄が良く表れるのだ。

 帰り際、駐車場の前で、青木選手がサポーターに囲まれていた。サイン帳を手に急いだが、残念ながら間に合わなかった。

 「夏休みサンクスフェア」では、ダニーロ選手のサイン入り色紙が当たった。歴代のユニフォームを象ったキー・ホルダーのガチャガチャやお土産を手に、翌日のスタジアム・バックステージ・ツアーを楽しみに、宿へと戻った。


#00052 終戦記念日
08/15/2009

 1945年8月15日、太平洋戦争が終結した。きょうは、64回目の終戦記念日。

 私の父は、1945年3月10日の空襲で、家を失った。

 当時、19歳。陸軍への志願を考えていた。ところが、空襲に遭い、「家の片付けをしろ」との命令で、戦地に赴かずに済んだ。

 その後、1962年5月3日の「三河島事件」では、乗ろうとしていた列車が混雑していたため一本見送り、難を逃れた。

 人生とは、不思議なものである。

 東京大空襲がなければ、私がこの世に生を受けることはなかった。

 東京大空襲では、80万3793人が命を落とし、4万0918人が負傷、被災者は100万8005人、被災家屋は26万8358戸にも上った。

 太平洋戦争では、軍人で174万0955人、民間人は39万3000人もの尊い生命が失われた。

 現在の平和があるのは、天国に旅立った夥しい方々のお陰。

 不戦の誓いを胸に、恒久平和を追求することが、私たちに課せられた永遠の責務であろう。

 亡くなった方々に、心から哀悼の意を表したい。


#00051 もやもや散策@秋葉原
08/09/2009

 新しいモデルさんに挑戦すべく、秋葉原のスタジオ「モデメイド撮影会」の門を叩いてみた。モデルは、あいさん。

 16時から3時間の予定で、秋葉原をぶらつく。「秋葉原 UDX」から中央通りに出て、末広町の駅前に。

 短大で服飾の勉強をされているのだとか。「将来的には、自分が着られるような服を作ってみたいですね。私、小柄だから」。

 当初は声優を目指していたが、親御さんの勧めもあり、進学を決めたそうだ。「卒業制作があるんですけど、まだテーマは決まってないんですよね」。

 蔵前橋通りを進む。少し裏道に入ると、民家が点在していた。電気街で有名な街ではあるが、昔から住んでいる方がいるのだ。それでも、人口の減少で、錬成中学などは廃校になってしまった。

 とあるお宅の軒先に綺麗な黄色い花が咲いていたので、それをバックに一枚撮る。

 さらに歩みを進め、「神田明神」に到着。「銭形平次」でおなじみの神社である。

 急な階段を上り、本殿に。鹿島アントラーズの2冠達成、家族の健康、あいさんの将来が明るいものであるように、と祈願する。「あー、5円玉がありませんです」。あいさんが、失敗したといった感じの声を上げた。

 訪れたのは、初めてであった。都会の真ん中に、これほど閑静で広い神社があるとは知らなかった。

 2人とも、蚊に刺されまくった。「虫除けとか虫刺されの薬とか、持ってくれば良かったですね」。どちらからともなく、笑いが漏れた。

 門前の店で休憩。さすがに夜が早かったが、一軒だけ開いていたので、取り敢えず入ることにする。

 私は「ヱビスビール」、彼女はティラミスが付いたティーセットを注文した。「弟が鹿島のサポーターなんですよ。部屋にポスターとかが貼ってあります」。よし、好感度アップ。

 「何かスポーツを見たり、やったりとかはしないのですか?」「ええ、見ないです。わたし運痴だから…。泳ぎもダメだし」。かく言う私も泳げない。泳げなくても、生きていく上で何の支障もない。日本が沈没するような事態になれば、別の話ではあるが。

 店内のテレビからは、酒井法子容疑者がまだ逃亡していて、居所が分からない旨のニュースが流れていた。

 そろそろ腰を上げようかと思っていたら、雨が降り出した。雷も鳴り出す。仕方がないので、その日は2時間で切り上げた。

 「どこか行きたいところはありますか?」「鎌倉が良いですね。行ったこと、ないんですよ」。次回は、少し遠出することにした。

 スタジオに戻ると、店長さんが外で出迎えていてくれた。「遠出のコースはどうして安いのですか?」「私も自分で撮影したいからですよ。利益は全く出ないですけど」。秋葉原に店を構えて1年半だそうだ。

 「夏休みは、白川郷に行くんですよ」。その後、実家に戻るので、次回は8月の最終週にしましょう、ということになった。

 別れ際に握手してもらう。

 帰り際、駅前に出店していたケバブ屋でケバブを食す。私のカメラを見たトルコ人の店員さん、「そのカメラはいくらですか?」と聞いてきた。レギュラー・サイズで500円。肉がたっぷりと入っていて美味。病み付きになりそうだ。

 あすから1泊の小旅行に出かける。「カシマスタジアム」のバックステージ・ツアーに参加し、久しぶりに練習を見てこようと思う。

 オリヴェイラ監督に渡す写真も用意した。いろいろと聞いてくるつもりだ。1週間の中断を挟み、次はホームで大分戦。窮鼠、猫を噛む、の喩えもある。この夏を何とか乗り切れば、栄光が見えてくるに違いない。


#00050 すいぞくかん
08/08/2009

 かみさんと、ちかくの「さんしゃいんこくさいすいぞくかん」にいきました

 みなみこありくい「たえ」とあかちゃんの「こんぶ」。まったく、やるきがない。


 あしかのしょー。おおさこくんは、これをさんこうにしてほしい。

 こつめかわうそは、ひっこんだままで、でてくることはなかった。

 なにかをみつめてたちつくすぺんぎんさん。

 あなご4きょうだい。


#00049 紫外線の恐怖
08/06/2009

 大きな代償とは、日焼けであった。

 横須賀基地をあとにし、鎌倉で夕食を取った時は全く問題なかったが、家に戻ってからが大変だった。

 腕や手首がヒリヒリして、回らない。雑巾を絞ることもできない。困った。

 とにかく、冷やすことにした。持っている、ありったけのタオルを冷蔵庫で冷凍し、次から次へと腕に、首に巻き付けた。

 フェスタ当日の天気予報は、曇り。雨が降るかもしれない、とのことだったので、何のケアもしていなかったのが敗因だった。

 とにかく何とかやり過ごし、週明けに朝一で近所の医者で診てもらう。先生は、台湾から帰化した方だった。「海兵隊にいた時にね、私もずいぶんと日焼けで苦しみましたよ」。

 亜鉛とオリーブ油を混ぜた塗り薬を調合してもらう。それを塗ると、身体が真っ白になった。

 腫れも引いてきたきのう、顔と頭の皮が一斉に剥けた。「皮を剥く楽しみが減っちゃった…」。相方は、残念そうな顔をしたが、取り敢えずは回復した。生きていることを実感する。

 目に見えない紫外線。奇しくも、きょうは広島の原爆の日。放射線も目に見えない。

 紫外線は自分が注意すれば症状を防げるが、放射線はそうは行かない。

 8月。それは、平和について考え、自らの生命を賭して日本という国を守ってくれた先達に感謝する月。

 1945年8月9日、当時の長崎市の人口240000人(推定)のうち約74000人が死亡、建物の約36%が全焼または全半壊した。そして、15日。二度と繰り返してはならない記念日がやってくる。


#00048 ヨコスカサマーフェスタ2009
08/04/2009

 「海上自衛隊横須賀地方隊」が実施した「ヨコスカサマーフェスタ2009」を見学してきた。

 「軍艦マーチ」に迎えられながら、セキュリティ・チェックを受けて、基地内へと向かった。遠方に、体験乗船のできる護衛艦「むらさめ」「おおなみ」、砕氷艦「しらせ」のシルエットが浮かんでくる。

 まずは、「むらさめ」に乗船。艦尾にはためく旭日旗。青い空とのコントラストが素晴らしい。その艦尾には、ヘリコプターの発着場と格納庫が併設されていた。

 発着場の片隅には、ヘリの発着をコントロールする小さな部屋が設けられている。

 格納庫を見たあと、側舷を伝って艦首へ。途中に魚雷発射管が3機備えられていた。護衛艦の任務は、守るべき船の周りに展開し、上空からはヘリ、あとはレーダーを駆使して、索敵と攻撃を行うこと。

 第2次大戦では、潜水艦に対しては爆雷で攻撃していたが、今は自動追尾システムを搭載した魚雷を使用するとのことだった。

 艦首に回り、艦橋を見上げる。グレー一色のその姿は、圧倒的な迫力をもって、私を飲み込もうとしてきた。大きな板状のレーダーが、グルングルンと回っている。主砲が、どこまでも澄み切った青空に向かって、砲門を突き上げていた。

 次は「おおなみ」。「むらさめ」と基本的な作りは同じ。ここでは、艦橋に入るチャンスがあった。

 急勾配の長い階段を上り、ようやく中へ。予想以上にシンプルで狭かった。それもそのはず、作戦の指揮は、地下にある CIC (Combat Information Center・戦闘情報センター)に一元化されているのだ。地下にある理由は、艦橋が損傷を受けても、指揮を執り続けることが可能なため。

 艦首に下りると、主砲の中を見ることができた。これも、現在は無人の遠隔操作。先の大戦では、射手、弾薬を詰める係、そして砲台を回す係の3人一組でチームを組んでいた。

 タラップを伝って「しらせ」に乗り込む。「しらせ」の運航も自衛隊が担当していることを初めて知った。

 南極の石、スノーモービル、観測の様子や世界各地を回った際の写真・パネルが展示されていた。

 生活空間は、2人部屋。2段ベッドにデスク、ソファと洗面台が用意されている。副艦長、艦長クラスの部屋には、これらに加えて、ちょっとした応接施設が加わる。

 最後は、アメリカ海軍のイージス型ミサイル駆逐艦「カーチス・ウィルバー」。側舷では、大口径の機関銃が睨みをきかせていた。空の薬莢、火災時に着用する防炎服などが展示されていた。こちらの船にも、主砲と艦橋の間のスペースに、ロケットランチャーが備わっている。

 説明をして下さった何人かの自衛官に、同じ質問をぶつけてみた。

 「どうして自衛隊を選んだのですか」

 動機は様々だった。「地方から出たかった」「親父に勧められた」「船に乗りたかった」。

 水兵さんというと華やかなイメージが先行するが、任務は厳しいものだ。3交代、3時間の当直、戦闘がなければ変化のない毎日…。艦長に至っては、艦橋にいるとき以外は、艦長室で24時間態勢で待機していなければならない、とのことだった。

 「蛍の光」が流れる中、出口に進む。幹部の方が挨拶して下さった。「ずいぶんと日焼けされましたね」。

 領土の防衛から、災害救助活動、そして、国際貢献の名の下に、インド洋上での給油活動、さらには、ソマリア沖での海賊対策。任務の広がりは、とどまるところを知らない。

 「結局は、国民のみなさんの理解がないと、この仕事はできない。その時々の政治に翻弄されることはあっても、『行け』と言われれば私たちは行くだけです」。生命を張った究極の汚れ仕事。どうか、生命だけは大切にして下さい。

 当日は曇りの予報だったが、お昼過ぎからは晴天になり、13000人くらいの方が訪れたそうだ。

 感動体験の連続だった5時間は、あっという間に過ぎていった。

 ただ、その代償は、大きかった。


#00047 再び死について考える
08/02/2009

 生きとし生けるもの、生まれた瞬間から、一秒ずつ、確実に、死に向かって全力疾走だ。



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